まえがき
1911年(明治44年)10月23日、高知県安芸郡甲浦町(現:東洋町)で、丸一切削工具株式会社の創業者、衣斐重左右衛門は生まれた。
祖先は、美濃の戦国大名、斎藤道三の家臣で、「西美濃十八将」の一人に数えられた衣斐丹石入道であるといわれている。
土佐に根付いた丹石入道の一族は、戦国・江戸時代前期の武将である山内一豊と所縁がある。衣斐丹石入道の娘は、山内一豊の妹お合の夫である野中権之進の母だ。一豊と権之進は心から理解しあえる友人で、「単なる友人以上の付き合いをしたい」という一豊の発案により、お合と権之進は婚姻関係を結んだとされる。
第一章 幼少期(甲浦の春)
小学生の頃の重左右衛門は、内気だがとんだ負けず嫌いとして有名だった。
こんなエピソードがある。2、3年生の頃、友人は倒立を軽々とできるのに、重左右衛門にはできなかった。それを情けなく思った重左右衛門は、友人に隠れて練習を積んだ。そしてある日「私もやってみようかな」と何食わぬ顔で言ったかと思うと、倒立で15メートルほど歩き、周囲を驚かせた。後には50メートルを歩くという最高記録を打ち立て、これは卒業するまで誰にも破られなかったそうだ。
第二章 少年期(岐路の春)
1924年(大正13年)初め、重左右衛門は全国に名を馳せた名門校、私立高知商業学校に合格する。
しかし、入学してから1年も経たないうちに祖父と母が他界。5年生の三学期には、自身も病気に見舞われ、生死の境をさまようことになる。3日間何一つ喉を通らず、水一滴飲めなかった為、7人の医師に見放された。そんな時に、父の後妻であるツユノが京橋で買い求めた今でいう2万円相当する西瓜で奇跡的に食が進み始め、死地を脱することができた。昭和の大恐慌の中、治療費も重なり、学資の見通しも立たず、3月末まではとりあえず、体慣らしの意味も含めて、家の手伝いをすることとなった。
そんな折に、父から重左右衛門のことを聞いたという来客があり、「一年間、すべての面倒を見る」と重左右衛門に持ち掛ける。当時の状況を踏まえればめったにもない話にもかかわらず、重左右衛門は、「故なくして他人様のお世話にはなりません。お断りします」と言ったという。しかし、かえって「面白い子だ」と気に入られ、結果として重左右衛門は学業を続けることができた。
そして病気が治った後、病気をきっかけに体が元手だと子どもながらに自覚した重左右衛門は一年間もっぱら運動に明け暮れていた。部活の剣道、町柔道での修業、毎土日にはボートレースもした。冬は川で早朝に水泳をしていたので近所の人に禊をしていたと勘違いされていたこともあった。こうして、どんな酷い仕事にも耐えることができる体ができた。
学生の時代のエピソードとして、こんな話がある。兼部で、相撲部のマネージャーをしていた頃、校則で禁止されていた映画館に部員を連れていったが、監視の先生に咎められることはなかった。重左右衛門は、「制服帽と袴着用」「早めに入って横一列で座る」などの4つの条件を部員に守らせていた。そのため、立ち振る舞いがあまりにも堂々としていたので、学校からの許可を取っているのだろうと先生が見逃してしまっていたそうだ。
第三章 青年期(商人の春)
1930年(昭和5年)3月、重左右衛門は卒業と同時に徳島に移り住み、義母の娘、貞子と結婚した。徳島に落ち着いたころ、父親にいきなり八百物市場に連れていかれ、品物を借りて売るように言われた。商売の経験がない中で、食べるためにはと、泣く泣く八百屋を始めた。先の見えない辛い日々だったが、天気による野菜の入荷度合や、市場の営業時間の差を利用して、一日で五円の儲けをして父に商人としての才能を褒められたこともある。当時、大工の1日の給料の5倍である。1930年(昭和5年)7月に産業道路の開設工事が始まると、臨時雇いを経て県に正規雇用される。その後は、県庁の先輩の薦めで、保険会社に勤務。上司に恵まれたこともあり、会社の所長に推薦されるも、大阪に住む家族が独立営業することになり、父から「家族力を合わせて大阪で商売をしないか」と言われ、悩んだ末に会社を去る決意をする。
第四章 創業期(浪速の春)
1935年(昭和10年)4月、大阪へ引っ越し、丸一切削工具が創業される。重左右衛門は、立売堀、新町の問屋を毎日訪問して取引を願い、増収するも、引っ越し費用と収支のバランスが合わずに金を借り、その後も借金は増える一方だった。
そんなある日、父が吐血し、それからわずか2週間後に帰らぬ人となる。また、日ごろから丈夫でなかった妻も、この頃の看病疲れで体調を崩し、約3か月後、息を引き取った。重左右衛門は、そんな中でも生きるため、朝から晩まで休む間もなく働き続けていたものの、無理がたたって病にかかり、寝込むことになった。しかし幸いにも名医に出会い、やがていつも通りの生活に戻ることができた。また、膨らみ続けた借金も、戦争により機械工具の需要が増し、売り上げが伸びたことから、一年で完済することができた。
大阪にも慣れてきた頃にも、こんなエピソードがある。
ある得意先が独立して工場を建設することになり、工具40点ほどが必要だと、見積もりの依頼を受けた。見積書を提出してから3日後に、そこへ行くと、丸一に発注されるものだけ○印がつけられていた。まとめて注文がくるものと思っていた重左右衛門は、その理由を尋ねると、「丸一は高いから、9点以外は他社に依頼する」という。それを聞いた重左右衛門は即座に「注文はいりません。あんたのところにはもう品物を売らない」と言い、「ただし、他社の見積もりを見せてほしい」と続けた。一度は断った店主だが、重左右衛門は「あんたが下手な買い物をするのを黙ってみていられない」と言うと「面白い男だ」と見積もり書を見せてくれた。見積もりを見ると、丸一の商品は一流メーカーのものであるのに対し、他社の見積もりは無名のメーカーのものであった。「安くても精度が悪く耐久性のないものを買っては安物買いの銭失いだから注意したほうがいい。将来を楽しみにしていた得意先をものにできなかったのは残念ですが、また努力します。さようなら」と言って踵を返した。その背中に「ちょっと待て、わたしが間違っていた。全部任せるからよろしく頼む」と店主は頭を下げた。初めから受注をあきらめたわけでなかった重左右衛門は、喜んで引き受け、翌日には納品した。
その後も、見本品と現品の質が違うなど、何度かだまされたことはあったが、いい勉強だったと切り替えた。その後、第2次世界大戦が激しくなり、1944年(昭和19年)10月から1946年(昭和21年)9月の2年間、商売を休業することとなる。
第五章 戦後発展期(無心の春)
戦争が終結した1945年(昭和20年)8月15日の後も、簡単には元の商売に戻れなかった。1年間どの商売をするか悩んだが、戦災を逃れた谷町で工具商の店が賑わっている様子を見て、元の商売に戻ることを決意する。
本拠地をどこにするか焼け残っためぼしい場所探し回ったが、結局、商売に不向きとわかりつつかつて住んでいた大阪・都島の土地を借りることにした。
1947年(昭和22年)、再開業した都島の京橋では、売りに出るという方法でしか商売にならなかった。4、5年してやっと相手の主人が話を聞いてくれるようになる。しまいには「丸一さんですか、まあどうぞ」と椅子をすすめてくれるまで、相手に受け入れられ商売が軌道に乗るようになった。
1951年(昭和26年)3月に上町に、その数年後には新町に移転した。最初は、極細ドリルメーカー1社のみの代理店だったが、そこからさまざまな縁があり、その後は、神戸製鋼(現 三菱マテリアル㈱)、東芝タンガロイ(現 ㈱タンガロイ)、ダイジェット工業、彌満和製作所などの商品を取り扱っている。
商人は1人1人異なった性格を持っており、それが基となって取扱商品が決まっていくと重左右衛門は述べている。彼は切削工具の専門店として権威ある商売を志し、その道を進んだ。「丸一切削工具株式会社」という社名は、日の丸を背負う日本一の切削工具専門商社になるという夢と、丸<輪>みんなが一丸となって働くことができる会社にしたいという創業者の気持ちが込められている。
「お金儲けを第一義とする商人でありながら、人をだましたり、相手に失礼な対応をされたりしてもなお、お取引するようなことは、嫌いである。やはり、親戚付き合いの気持ちで、よき日々を感謝のうちに過ごしたいものである。」と重左右衛門は締めくくっている。